ちいさなお家から

パン作り記録、ごはん日記、お菓子作り、毎日のあれこれナド

儚さに思う

 「八日目の蝉」を見た。前回見た時も今回も、この映画では涙腺が緩む。山場というような場面で感極まるというのでなく、常にそこにある切なさがたまらない。
 前回見た時は、誘拐された子ども、薫が、不安定な環境ー子ども時代の喪失ーで育てられた故の心の置き場のなさが辛く、過去を辿ることで自己肯定感を得てゆく過程に胸を打たれた。誘拐犯だけでなく、地域に溶け込み「普通の子ども」として愛されていたことを思い出す。愛された実感が自己肯定感を形成する、そんな映画だと思った。しかし今回は、申し訳ないが誘拐犯である希和子に感情が寄ってしまった。
 不倫相手の子どもを奪い深い愛情を持って育てる希和子、もちろん当時の彼女の状況の残酷さを考えても、乳児誘拐は決して許されることではない。子どもとその子との時間や親子関係をも奪われ、それらがもはや取り返せなくなった実の母親の心情も想像に絶するし、まさに同じ母親として身を引き裂かれる思いが当然ある。それに何より一番の被害者は、生い立ちや親子の愛情という心の基盤を取り上げられ、癒せない大きな傷を負った子ども本人であるのだから。
 身勝手極まりない希和子の行動に怒りの感情を持ちつつも、しかしそれとはまた別のところで、切り離すように「母親」としての希和子に引き付けられてしまう。それは、いつ逮捕されて終わるか知れないという恐怖の中で、この幸せは長くは続かないという儚さ、今共に過ごせていることへの素直な喜び、奪ってきた子どもであるが故に、そこにいながら手の届かない「我が子」への、狂おしいほどのいとおしさを、希和子から感じるからだと思う。
 私は幸運にもこうして自分の子どもとの時間を過ごすことができている。しかし比較的高齢でやっと授かった大切な子ども、もし少しでも何かが違っていたらこの時間はない。大袈裟かもしれないが、時々夢を見ているのではないかと思うことさえある。また仕事と家庭の両立とは言うものの、息子には少なからず寂しい思いをさせていると思う。そんな中で過ごす休日の息子との時間や何気ない毎日の食事の時間が、本当にかけがえのない、ともすると一瞬で終わってしまいそうな時間に思える。子どもの成長は早い、しかし仕事を辞めるわけにいかないというジレンマ。状況は全く違うけれど、そんな日常に取りついてうっすらと気持ちを支配している儚さが、希和子の気持ちとどことなくリンクしたのかも知れないと思う。終盤での希和子の台詞、「今日も薫と一緒にいれて幸せだった」が心に響く。 

 とはいえ、そんなかけがえのない他人の親子の時間、愛する薫が実の母親から受けるべき愛情を奪ったのが希和子自身なのだから、決して美化して捉えてはいけない。
 脳の中で、色んな部分がざわつく作品だと思う。

八日目の蝉 通常版 [DVD]

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